
東廻り航路は、大航海時代にヨーロッパ諸国がアジアとの貿易を目指して開拓したルートの一つです。ポルトガルを中心とした航海者たちは、インドや中国、東南アジアとの貿易を求めて東へ進み、アフリカ大陸を回る新たな航路を開拓しました。この航路がどこからどこまでを結び、どのような影響を及ぼしたのかを見ていきましょう。
大航海時代の初期、ポルトガルが最も積極的に東廻り航路を開拓しました。15世紀末、ポルトガルの航海者たちはアフリカ沿岸を探検しながら、最終的にアジアへ向かうルートを発見しようと試みました。その中でも特に有名なのがバルトロメウ・ディアスで、彼は1488年にアフリカ南端の喜望峰を初めて通過しました。これにより、アフリカを回ってインド洋へ至る道が開かれたのです。
この発見に続いて、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年にインドのカリカットに到達し、ヨーロッパからアジアへ直接航海できる東廻り航路が確立。これがポルトガルにとっての貿易革命をもたらし、香辛料や絹、宝石といったアジアの産物が直接ヨーロッパに持ち込まれるようになりました。
東廻り航路を通じて、ポルトガルはアジアの香辛料やシルク、茶、陶器などをヨーロッパに輸入しました。とりわけ胡椒やナツメグ、シナモンといった香辛料は、ヨーロッパで非常に高値で取引され、上流階級に好まれました。これにより、ポルトガルは莫大な利益を上げ、その結果、ヨーロッパ全体の経済に大きな影響を与えたのです。
しかし、この独占状態も長くは続きませんでした。オランダやイギリスが16世紀後半から17世紀にかけて新たな勢力として台頭し、東廻り航路をめぐる競争が激化していきます。特に、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社が設立され、アジアとの貿易に参入し、ポルトガルの影響力は次第に薄れていったのです。
東廻り航路は、上述したように、ポルトガルがアフリカ南端を回ってインドや東南アジア、さらには中国・日本に至る航路を指します。この航路は、香辛料やシルク、宝石などの貴重な品々を求めてヨーロッパからアジアに向かうために使われ、主に以下の3つのポイントに分けることができます。
起点はポルトガルのリスボンが代表的です。リスボンはポルトガルの首都であり、当時の海上貿易と探検の拠点となっていました。ポルトガルの航海はここから始まり、探検家や商人たちは富と貴重な香辛料を求めてアフリカ沿岸を南下していくのです。
中間点の最も重要な場所はアフリカ南端の「喜望峰」です。1488年にバルトロメウ・ディアス(1450年 - 1500年)が発見したこの場所は、アフリカ大陸を回り込んでインド洋に至るための重要なポイントでした。この場所を回り込むことで、ヨーロッパ人は初めてインド洋への直通ルートを確保したのです。
さらに東廻り航路では、喜望峰を越えた後、東アフリカのモザンビークやザンジバルといった港が重要な中継地となりました。ここで水や食料を補給し、さらに東に向かって航海を続けることが出来たんですね。
終点の代表はインドのカリカットです。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃 - 1524年)がこの地に到達したことで、ポルトガルはインド洋を通じた貿易ルートを確立したのです。カリカットは、当時の香辛料貿易の中心地であり、ヨーロッパとアジアを結ぶ主要な貿易拠点となりました。
その後、ポルトガル人はさらに東へ進み、マラッカ(現在のマレーシア)やモルッカ諸島(現在のインドネシア)など、香辛料の一大産地にも到達。また、中国や日本にも航海が及び、これらの国々との貿易も盛んになりました。
中国ではマカオが、そして日本では平戸や長崎が貿易の拠点となりました。